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ドラマ「ザ・ロイヤルファミリー」の感動を福島でも。福島競馬場が刻んだ100年の歴史
午年を祝う特別企画! 政敵をも動かした情熱が、東北唯一の聖地を誕生させた
2026年、午年(うまどし)の幕が開けました。この飛躍の年に、東北唯一のJRA競馬場である「福島競馬場」の歩みを紐解いてみませんか?
昨年末、日本中を熱狂させたTBSテレビ日曜劇場『ザ・ロイヤルファミリー』。夢を追い続ける大人たちと、馬が織りなす絆の物語に、多くの方が胸を熱くしたことでしょう。そんなドラマさながらの情熱が、ここ福島市にも息づいています。
明治時代、信夫山の麓で札束が舞ったという伝説の「奉納競馬」を原点に、一度は途絶えかけた競馬の灯。それを再び灯そうとしたのは、立場を超えて手を取り合った二人の「熱き大人たち」でした。
買収交渉の決裂、二転三転する候補地……。数々の困難を乗り越え、わずか3か月という驚異的な突貫工事で「聖地」を創り上げた、100年前の知られざるドラマに迫ります。

現在の福島競馬場
目次
信夫山の麓から始まった、街を揺らす熱狂の記憶
福島における競馬の発端は、明治20(1887)年、信夫山の麓(現在の県立橘高校裏側)にできた一周約800メートルの競馬場であり、春・秋の2回にわたって行われた信夫山招魂社(現在の福島県護国神社)祭礼の奉納競馬でした。
これが大盛況で、「一等に入った馬の持ち主である商人が、狂喜のあまり札束を場内にばら撒いた」という逸話が残されています。
初めは大いに盛り上がりを見せた競馬でしたが、明治30(1897)年のレースを最後に、競馬場は郡山市開成山へと移転しました。
同じころ、迫る戦争に備えるため陸軍による軍馬改良が急務となり、政府は馬政局を創立し、産馬事業促進に乗り出しました。このとき、軍馬改良の手段として競馬が注目されました。馬を走らせ優劣を付けることにより、国内における産馬事業の関心を高めようとしたのです。さらに、馬券を発行することによって資金を得ようと考えた政府は、これを奨励しました。
競馬熱の高騰
そして明治39(1906)年に競馬法が施行されると各地から公認競馬の認可を求める請願が出され、横浜をはじめ京都、札幌、藤枝など、全国15か所に公認競馬場が設けられました。
すると競馬熱は一気に盛り上がり、公認ではない郡山市の開成山競馬場ですらそれらに引けを取らず、郡山市内は競馬景気に沸き立ったのだそうです。全国的にそのような異常な競馬熱に包まれたため、すぐに社会問題となりました。
明治41(1910)年には馬券禁止令が発令され、馬券発売が「黙許」されたことで全国に競馬場が急増しました。営利を優先するあまり不正が横行し、世論やメディアから厳しい批判を浴びる結果となりました。
事態を重く見た政府は、1907年(明治41)の新刑法施行を機に馬券発売を禁止しましたが、産馬事業の目的で推奨した競馬を廃絶させるわけにはいかず、馬券を伴わない競馬開催の維持を目的に、わずかな補助金を支出することにしたのです。
その後は政府の補助金に頼らざるを得ない「補助金競馬」の時代へと突入し、競馬界は冬の時代を過ごすことになります。
福島愛馬会の結成と福島競馬場開設の第一歩
大正2(1913)年、安達郡産馬畜産組合長であった伊藤弥(いとう わたる)らの主張により、「馬産振興、乗馬奨励、競馬発展に寄与」を目的とする「福島愛馬会」が結成されました。伊藤は当時の日本の政権を担っていた政友会所属の政治家で、馬を愛し、彼こそが福島市に公認競馬場の誘致を唱えた人物でした。
大正5(1916)年、静岡の藤枝競馬倶楽部が経営困難に陥り、話によっては開催権の譲渡が可能であるという情報が入りました。競馬場誘致を掲げていた伊藤にとっては、喉から手が出るほど欲しい情報であったに違いありません。
当初は郡山市の開成山競馬場を公認競馬場にするという方針で進められましたが、郡山市民たちが首を縦に振ることはありませんでした。彼らにしてみれば、競馬場の誘致など「倒産した事業を押し付けられる」という行為にすぎなかったのです。ついには、新たな競馬場を福島市に求めることとなりました。
伊藤弥と大島要三、二人の「熱き大人たち」の出会い
福島市には福島県政財界の重鎮、大島要三(おおしま ようぞう)が腰を据えていました。大島は、伊藤が所属する政友会と敵対する憲政会に所属する政敵で、当時の情勢を考えれば彼らが手を組むことは考えられません。
しかし本宮市出身の伊藤では、福島市内に競馬場建設を働きかけるには限界があります。そこで伊藤は、影響力を持つ大島の協力を得ようと考え、彼に嘆願しました。伊藤の熱意に大島が感嘆し、これを快諾。そして大正6(1917)年、公認競馬場誘致に向けて本格的な活動が始まるのです。
大島はまず、藤枝競馬場との交渉を試みました。そのとき藤枝競馬場側が開催権譲渡に示した金額5万円(現在の約4,600万円)に対し、大島が考えていた金額は1万8000円と大きな差があり、当然のことながら交渉は決裂しました。
しかし、立ち行かない事業を抱えた藤枝競馬場側が折れてくれると踏んでいた大島は、福島に戻らず近くの温泉場に滞在し身体を休めていました。その予想通り再交渉の申し出があり、大島側が提示した金額で交渉が成立しました。

信夫山の中腹に建てられた大島要三の碑(眼下にある福島競馬場を見据えている)
藤枝から福島に移転、福島競馬倶楽部の発足
藤枝競馬場から開催権の譲渡は受けたものの、政府から認可を得られるかどうかは別問題でした。これには中央政界に名が轟く河野広中や堀切善兵衛らも尽力し、陸軍省馬政局から内諾を取り付けて、大正6(1917)年12月27日、ついに藤枝から福島への移転許可が下りました。
これにより翌大正7(1918)年1月12日、藤枝競馬倶楽部は、大島が会頭を務める「福島競馬倶楽部」へと改称しました。そして今日まで続く福島競馬がスタートしたのです。
当初、競馬場建設の第一候補地として挙げられたのは、福島市笹木野でした。しかし地主からの反対を受け断念せざるを得ませんでした。候補地は次第に福島市松浪町へ絞られていき、本格的な建設工事に着工したのは3月20日のことでした。
かくして、大島自ら指揮を執り、県内の土木建築業者を総動員しての突貫工事が始まりました。過去、難しいとされた東北本線鉄道敷設、道路建設工事などをこなした功績のある、大島の力量が存分に示された舞台でした。

信夫山から福島競馬場の眺め(中央に観客席と馬場が見える)
わずか3か月の突貫工事により「聖地」誕生

大正7(1918)年6月27日、ついに第1回福島競馬が開催されましたが、競馬場が完成したのはわずか3日前の6月24日でした。
競馬開催に間に合わせようと奮闘した大工事でしたが、わずか3か月程度で馬場の造成、きゅう舎、スタンド、その他の施設などを併せた大きな競馬場を建設し、競馬開催に至らしめたのは、大島の手腕の成せる業でした。
その日は朝早くから多くの人波が、出来上がったばかりの競馬場に押し寄せ、大盛況のうちに開幕されました。その光景は今と変わりません。
現在、福島競馬場といえば重賞レースが開催され、春・夏・秋の3回行われるレースの際には福島市内はもとより全国から競馬ファンが集い、熱狂します。
大島要三が尽力し、育て上げた福島競馬場は福島に大きな発展をもたらしました。それは、現在にも生き続け、「市民の憩いの場」「競馬ファンの聖地」として全国に愛されています。
【この記事は2017年12月28日に発行された「ふくる通信07号」に加筆修正しました】
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